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日本の城 国宝及び重要文化財一覧
[国宝 5城・重要文化財 7城]

国宝
国宝 松本城
住所 長野県松本市丸の内
撮影 2016/07/05
地図
歴史 安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう) といった。


国宝
国宝 彦根城
住所 滋賀県彦根市金亀町1-1
撮影 2016/04/08
地図
歴史  彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工されました。当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城されました。天守は大津城から天秤櫓は長浜城から移築。天守は2年足らずで完成しましたが、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は1622年とされています。
 この間、井伊直孝は大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣し、その功績によって家督を継ぎ、夏の陣では豊臣方の木村長門守重成と戦い大功をあげ、井伊直政(常に先鋒を務め、徳川四天王のひとり)に劣らぬ武将と賞賛されました。直孝は、秀忠、家光、家綱の三代にわたって、将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。
 これらの功により3回加増され、譜代大名としては例のない30万石となる。彦根35万石といわれるのは、このほかに幕府領5万石の預かりがあり、合わせて35万石となります。天守は18万石の頃の完成でした。  彦根観光ガイドより


国宝
国宝 犬山城
住所 愛知県犬山市犬山北古券65-2
撮影 2016/04/07
地図
歴史  木曽川沿いの丘の上に築かれた城郭である。江戸時代前後に建造された天守閣が現存する数少ない城の一つで、天守閣は国宝に指定されている。1469年(文明1)に室町幕府の管領斯波義郷の家臣だった織田広近がこの地に砦を築いたのが犬山城の起源とされる。
 1537年(天文6)、木ノ下城(犬山市)を居城としていた織田信康(織田信長の叔父)が城を改修して居城を移した。現存する天守の2階までの部分はこのころにつくられたと推定されている。1567年(永禄10)、信康の子信清の代に、犬山城は対立していた織田信長に攻め取られ、池田恒興や織田勝長などが城主をつとめた。
 1582年(天正10)に信長が本能寺の変で死去したのち、犬山城は清洲城を居城とした信長の次男織田信雄の支城となり、信雄配下の中川定成が城主として入城したが、1584年(天正12)に旧城主の池田恒興が奇襲により城を奪取した。これがのちの小牧・長久手の戦いの原因の一つとなった。その後、犬山城主は三好吉房を経て石川貞清がつとめた。  wikipediaより


国宝
国宝 姫路城
住所 兵庫県姫路市本町68番地
撮影 2016/12/17
地図
歴史  姫路城の始まりは今から約700年近くも前、今の立派な天守閣が最初からあったわけではなく、もともと姫山という小高い山の上に赤松則村が砦のようなものを築いたのが始まり、1346年に赤松貞範によって建てられたのが姫路城の最初とされています。はじめは館のようなもので、天守閣などはありませんでした。
 黒田孝高(官兵衛)が城主のころ、織田信長軍の中国攻めのために、姫路城が重要な要の城になると考えた官兵衛は、なんと秀吉に姫路城を譲ってしまいます。
 そして秀吉は、館のようだった姫路城をあらたに造り直し3層の城を築城(1580年)しました。それから約20年後の1600年の関ヶ原の戦いの後、池田輝政が城主になり、9年の歳月をかけて 秀吉が築城した3層の姫路城を現在の5層7階の城に大改築した。


国宝
国宝 松江城
住所 島根県松江市殿町1-5
撮影 2016/12/14
地図
歴史  松江開府の祖、堀尾吉晴が、1607年から5年の歳月をかけ、1611年に完成させた。以来、堀尾氏、京極氏、松平氏の居城であった。松江城は住居というよりも実用的な望楼型の砦の例の一つである。
 2015年(平成27年)7月8日:天守が国宝に指定された。国内の城跡で天守が国宝に指定されるのは63年ぶり5件目。


国の重要文化財
重文財 弘前城
住所 青森県弘前市下白銀町
撮影 2016/07/12
地図
歴史  1590(天正18)年、17年に渡って津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を得ました。この時大浦を津軽と改姓し、為信は、1594(文禄3)年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを開始。
 1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より更に2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。1603(慶長8)年には徳川幕府の成立とともに高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め、城の築城計画しますが、1604(慶長9)年 為信は京都で客死し、築城は中断します。
 1609(慶長14)年 2代目信枚が、築城を再開し、堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、1611(慶長16)年、 僅か1年と数か月で弘前城が落成しました。
 弘前市では、弘前城本丸の石垣修理に伴い、天守を約70m本丸の内側へと曳屋する工事を平成27年に実施しました。平成28年には、石垣解体に着手しています。石積みに墨で目印を引いたり、石材に番号付けをするなどして、石材の位置記録を進め、石材解体作業は平成29年より石垣修理工事には約10年間を要し、曳屋した天守を元の位置に戻すまでにも5年以上かかると見込まれています。


国の重要文化財
重文財 丸岡城
住所 福井県坂井市丸岡町霞町1-59
撮影 2016/04/11
地図
歴史  天正4年(1576年)、柴田勝家の甥の勝豊が丸岡城を築き、城下町を整備したのが都市的起源とされています。丸岡城は柴田勝豊によって築城され、国の重要文化財です。
 外観は二層、内部は三層の望楼型天守閣で石垣は”野づら積み”という古い方式で、すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています。
 柴田勝豊の後、城主は、安井家清・青山宗勝・青山忠元を経て慶長18年(1613年)に、本多成重に代わったが、本多氏は4代で改易。元禄8年(1695年)、越後糸魚川から有馬清純が5万石で入城し、幕末に至るまで8代続きました。


国の重要文化財
重文財 備中松山城
住所 岡山県高梁市内山下1
撮影 2016/12/16
地図
歴史  天守が残る日本で唯一の山城。現存12天守のひとつとして有名。相模国から備中国有漢郷へ入国して来た地頭・秋庭三郎重信が臥牛山の最高所・大松山に鎌倉時代の延応2年(1240)に築城したのが最初。1683(天和3)年に水谷勝宗(みずのやかつむね)によって3年がかりで修築され、今の天守の姿になりました。
 現存天守の中ではもっとも訪問しづらい城といえます。また江戸時代、城主をつとめた水谷氏がお家断絶になったため、『忠臣蔵』で有名な赤穂藩主・浅野長矩の管理とされ、城の受け取りには家老である大石内蔵助が訪れています。そのため山頂にのぼるルートにはそのときに休んだとされる「大石内蔵助の腰掛け石」があります。


国の重要文化財
重文財 丸亀城
住所 香川県丸亀市一番丁
撮影 2017/04/10
地図
歴史  丸亀城は高さ日本一の石垣を有し「石垣の名城」として有名、その石垣に鎮座する天守は、現存中の天守の一つです。城は生駒親正がその子、一正とともに慶長2年(1597年)から5年掛かりで築いた、自然の小山を利用した平山城です。
 築城400年を超えた今でも、決して色褪せることなく、自然と調和した独自の様式美を残しています。石垣は荒々しい野面積、算木積など城郭石垣を築く技術が最高技術で積まれた石垣を見る事が出来ます。


国の重要文化財
重文財 高知城
住所 高知県高知市丸ノ内1丁目2-1
撮影 2014/04/08
地図
歴史  江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。3層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
 高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。
 現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。


国の重要文化財
重文財 松山城(伊予松本城)
住所 愛媛県松山市丸之内
撮影 2017/04/06
地図
歴史  松山市の中心部である標高132mの城山(勝山)山頂に本丸があり、裾野に二之丸(二之丸史跡庭園)、三之丸(堀之内)がある、広大な平山城です。加藤嘉明公こうが1602年から築城を開始し、わが国の築城史上、最長の歳月(四半世紀)を完成までに要した四国最大の城郭で、「現存12天守」の中では、姫路城と並ぶ連立式の天守を有しています。加藤氏は、城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生氏を経て1635年から明治維新までの235年間に渡り、親藩大名であった松平家の居城となりました。


国の重要文化財
重文財 宇和島
住所 愛媛県宇和島市丸之内1
撮影 2017/04/07
地図
歴史  現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)藤堂高虎築城のときとされています。城の外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられます。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成。その姿を現在に残しています。


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