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住 所 |
埼玉県行田市本丸 |
撮 影 |
2016/08/21 |
歴 史 |
1478年(文明10年)頃、成田正等・顕泰父子により築城したといわれている。
1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが、持ちこたえている。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽と町人など3,000人が忍城に立てこもった。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸、信繁父子らも加わった。三成は、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。 wikipediaより
忍城の詳細は行田市のホームページで
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建 物 |
廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれたが、その後廃城となって城内の構造物はほとんどが撤去され、城跡は公園(成田公園、後に忍公園)として整備された。1988年2月17日にはその跡に行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などをもとに鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。
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文指定 |
行田市郷土博物館
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自宅から近いこともあり(20km程度)何回か訪れている。久々に今回は写真を撮りに出かけたが改めてみるとお堀越しの忍城は美しい形をしている。
休日であったため城の中には入れなかったが天守閣から見る景色はきっと水攻めで苦しんだ往年の武将たちが目に浮かぶかもしれない。・・この辺は映画の影響かもしれないが・・。
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