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住 所 |
大分県佐伯市大手町1丁目1-1  |
撮 影 |
2017/04/03 |
歴 史 |
関ヶ原の戦いにおいて、徳川方(東軍)に与したことにより、1601年(慶長6年)、毛利高政は海部郡に2万石を与えられ、豊後国日田郡日隈城より前領主佐伯氏の旧居城であった栂牟礼城に入城した。
しかし、栂牟礼城は険阻な山城で、平時の統治には不便であったため、翌1602年(慶長7年)から番匠川河口近くの八幡山で新城の築城に取り掛かった。縄張は織田信長の元家臣で安土築城にあたった市田祐定、石垣は天正期姫路城の石垣施工を指揮した石垣師の羽 山勘左衛門が担当した。6年の歳月をかけて1606年(慶長11年)にはおおよそ完成したが。1617年(元和3年)、二の丸より失火して、本丸と天守を焼失した。
1637年(寛永14年)3代高尚のとき、麓に三の丸を増築し、三の丸に居館が移されて以降は、城の中心施設として利用された。山上の本丸・二の丸などは、焼失および居館の移設によって放置され荒廃が著しかったため、宝永6年(1709年)に6代高慶によって天守以外の建物が復興、修復されている。
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建 物 |
櫓などの建物の仕様は、下見板張りの壁に突き上げ式の窓、本瓦葺き屋根であったと考えられているが、詳細は不明である。山上の建物については明治初期にすべて撤去されているが、三の丸櫓門やいくつかの移築現存建築遺構に意匠が残る。
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文指定 |
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コメント |
城山山頂は海抜140メートルと小高い場所に建ち、街並みの見晴らしがよい。城跡には三之丸櫓門がひときわ目を見張り、他の建物は現存しない、石垣は多く残され天守閣跡地も現存していて往時をしのばせる。
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