|
住 所 |
大分県中津市二ノ丁 |
撮 影 |
2017/04/04 |
歴 史 |
第八代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待され、奥平家第七代奥平昌成公が豊前中津城に入城。丹後宮津から一万石加増の十万石での栄転でした。吉宗公は、家康公のひ孫にあたり、偉大な曾祖父を崇拝してやまなかったと言います。
「諸事権現様(家康公)定めのとおり」と、政治手法も家康公を手本にしていた程です。同じ家康公の血を引く、昌成公へは期するものがあったのでしょう。
以後、日本の蘭学の発展に貢献した奥平家第十一代昌高公をはじめ数々の名君を輩出し、1871年(明治4年)に奥平家第十五代昌邁公が廃藩置県を迎えるまで、中津城は、154年間に渡り奥平家の居城として城下町中津の繁栄を見守り続けたのです。
|
建 物 |
1877年(明治10年)の西南戦争の際、その御殿も焼失してしまい、それから敗戦と言う激動の時代を経て1964年(昭和39年)、旧藩主奥平家が中心となり、中津市民からの寄付も合わせて天守閣(模擬天守)が建造されました。
|
文指定 |
-
|
コメント |
天守の存在についてははっきりせず、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もあるそうな。中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。
本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができ見どころ満載です。
黒田とはNHK大河ドラマでおなじみの「軍師黒田官兵衛」のことである。
|