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住 所 |
大分県杵築市杵築16-1 |
撮 影 |
2017/04/04 |
歴 史 |
明徳4年(1393年)に、木付頼直により築かれた。戦国時代、島津氏の大軍に攻められるが、籠城の末これを退けた。しかし、後に主君の大友義統が文禄の役での失態の責めを負って豊臣秀吉により幽閉されると、当主木付統直は自刃し木付氏も滅びた。その後、前田玄以、秀吉の腹心だった宮部継潤、杉原長房、続いて慶長4年(1599年)には細川忠興の所領となり、重臣の松井康之・有吉立行を城代として置いた。
寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利が熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。その後、正保2年には松平英親が豊後高田藩より3万2千石で封じられ、その後明治維新まで居を構えた。
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建 物 |
山上は城山公園として整備され、一部石垣が残る。天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。
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文指定 |
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コメント |
杵築城は細川領であったが大阪方に付いた大友宗麟の息子義統(よしむね)に攻められ落城寸前、国営放送でおなじみの黒田官兵衛に助勢の要請が来る。
官兵衛はすぐさま駆けつけ本丸を残すのみとなっていた杵築城を助けた。などの話や宮本武蔵が佐々木小次郎との決闘を行った時の試合の検分を務めたのが細川藩筆頭家老の松井興長であったとか・・・話題も多い。
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