歴 史 |
平戸藩主松浦(まつら)氏の居城で、別名亀岡城とも呼ばれます。慶長4年(1599)平戸港周辺を基盤として 勢カを拡張し、戦国大名へと発展し豊臣秀吉に領知の承認をえました。
慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、積極的な動向をせず徳川政権に豊臣派の可能性を疑われ慶長18年(1613)築城して13年目の城を焼却して恭順の意を表したといいます。焼失した後建設されたのが、元和6年(1620)頃に平戸港 の北側の「御館山城」跡の下方に「御館」を建設し藩庁としました。
第5代藩主松浦棟(たかし)になって、亀岡に「平戸城」の再築を幕府 に願い出て、宝永元年(1704)再築に着手し、享保3年(1718)に完成しました。 概要としては、本丸、二の丸、三の丸、白浜廓、外廓からなり、二の丸に「御殿」が 築かれました。宝永元年より享保3年までの城築総入目銀高は1,180貫303匁8分2厘、延べ総 人夫数は554,371人でした。
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