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住 所 |
茨城県常総市新石下2010 |
撮 影 |
2016/07/18 |
歴 史 |
豊田氏は、桓武平氏常陸大掾一族の上総介繁幹(重幹)の第3子(将基)より興る。始祖政幹は、石毛荒四郎・赤須四郎等と名乗り、前九年の役に従軍し功を立て、その恩賞として豊田・岡田・猿島の三郡を賜り、若宮戸(現常総市若宮戸)の地に館を構え、長子公幹を向石下に、次子成幹を台豊田に配して、娘(常胤母)を千葉常重に嫁がせた。
治承4年(1180)の富士川の戦いから始まる源平合戦に、坂東の平氏は源頼朝方(源氏)に属して同族平氏と戦い、4代(幹重)もこれに参戦して功を立て、頼朝より兵衛尉に任ぜられた。その後、12代善基が小貝川辺に城を築き20代治親までの間、この地を領した。最後の城主治親は、弟政重を石毛に配して多賀谷氏の侵攻に備えた。
しかし、多賀谷氏の家臣白井全洞の陰謀により毒殺され豊田氏は滅びた。この地は慶長6年(1601)まで多賀谷氏が領し、徳川家康が関東入部の後に幕府の直轄領等となった。 案内板より
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建 物 |
豊田氏が、東部に流れる小貝川べりに築いた城が豊田城と呼ばれていたそうですが当時は、カヤ葺きで小貝川の水を要塞としたものだったといわれている。
平成4年にオープンした7階建ての展示館。地域の歴史、産業、更には長塚節の展示コーナーがあります。1〜2階は多目的ホールと図書館になっています。
2016/07/18、水害のためか3階以上は通行止めになっていましたが今回は展望台まで見学することができました。
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文指定 |
地域交流センター豊田城
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コメント |
災害にあった常総市はなぜこんなに立派なコンクリートのお城を造ったのか理解できません。時代考証とはまったく関係ない施設です。1階は案内とホール、2階は図書館、3階以上は災害のためか 立ち入り禁止となっていました(2016/07/18)。
最近、茨木県の地下からたびたび地震が発生していますので心配です。(2017/09/03)に再訪した時は1階から展望所まで見学でき、見晴らしのいい田園風景を見る事が出来ました。建物内部はほとんど見るものはなく、大きすぎて持て余している感じを受けた。
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